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The long waiting

If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.

昔の映画を地続きで感じたい

 歴史の映画が好きだ。特に好きになったのはここ数年だと思う。好きになったのは二つの映画の方向性の分類ができたからだ。

 

 ひとつ目は昔の作品で音声も映像もよくないけど、どうしても見たくなってしまう作品に触れる機会があったこと。いわゆる古典だと思う。これは黒澤明『生きる』だ。あまりにもわかりやすい役人像、、、と思うけど、最後に若手の役所職員が見る風景をつい思い出しててしまう。

 

 もう一つは、第二次世界大戦を否定するのが念頭にある戦争映画ではなくて、「なにか描きたいテーマがあって、そのテーマを描くために適切な時代設定が第二次世界大戦だった」くらいの温度の映画だ。

 

 良作に共通してることとして、昔の人の死を自分の死のごとくに信じられる。戦争映画は反戦かどうかは必ずしも、問題ではない。例えば、『出口のない海』は書き手は現代の小説家で演じるのは歌舞伎役者だ。

 

 とりわけ、時代の大きな流れから人間が生きることを諦めて現代的に登場人物が残す言葉に、創作の力を本当に感じる。良質な創作はみずみずしく過去を作り上げて今の僕たちに"追体験"する機会を与えてくれる。『この世界の片隅に』で主人公が居場所を捜して、誰かの居場所になることを選ぶシーンにも。

 

 ひょっとしたら違う歴史があったのかもしれないと思う。自分の事柄として感じられる仮定法の過去、現在、未来というところか。

 

「そんな未来もあったかもね」

 

 もちろん捜索で他人事だ。でも、ひょっとしたらこうだったかもと、読者を当事者として物語の舞台にコミットさせて想像を膨らませてくれる作品がたまらなく好きだ。

 

 

この世界の片隅に

これは例えばの話だ。

 

あるシングルマザーがいる。彼女には子供が少なくとも四人以上いる。家族が住む部屋には四隅にウサギ用のかごが置いてあるようだ。ウサギは飼っていない。こどもを入れるためのかごだ。

 

子供のうちの少なくとも一人は障害を抱えているらしい。その子供の親と会って家庭の問題について話すために、ある福祉職の男性がその部屋にまで出向いたという。

 

伝聞だから詳細は分からない。

 

さて、その家庭では男性をもてなすために、カップラーメンをつくることになった。子供が母親に言われてカップラーメンにお湯を入れようとする。

 

でも、間違えて水をいれてしまい、そのことに気が付いた母親はこどもをぶん殴る。もちろん、男性の目の前で。

 

今僕たちが生きているのはこういう世界だ。暴力はこの世界のどこにでもある。視野には入らない片隅にある。つまり、この世界の片隅は、日本列島の中にありふれている場所であり、そして、これからもっと増えていくのだろう。

 

さて、このろくでなしの母親の気持ちはわかるだろうか。僕は少しだけわかる。彼女はおなかがすきすぎたときに感じる「世界中でたった一人でいるみたい」な状態だったのだろう。自分のことで精一杯で人のことを考えられない余裕のなさだ。

 

この世界の片隅に貧しく生きるということは、人にうまく頼れないからこそ陥った貧しさと余裕のなさのもとに、怒りと暴力とが背中合わせで生きるということだ(ここにだいたい過不足な性も加わる。子供が四人もいるように。)。

 

僕は、この女性がしっかり罪を問われる「べき」だとも思うけど、よのなかに居場所を見つけられるように、社会の側がしっかり受け入れられるようにお金をかける「べき」だともおもっている。

 

今、僕は彼女/彼に寄り添える職業的な立場がないかを探っている。もちろん、そんな彼女/彼たちが向き合うのはあまりにも困難だ。なんで?少なくとも今は「頭がおかしい」からだ。もう一つ、金にならない。

 

この世界の片隅を見つけてその領域を少しでも減らすのが、福祉の仕事の一つの側面じゃないだろうか。予算が減り続ける中で、片隅を減らしていくのが腕の見せ所になるだろう。撤退戦の中での絶望的な任務だ。

 

ぼくは寄り添えるような人間になりたいと思っている。なれるかはまだわからない。なれるとうれしい。

 

 

新装版 茄子 下 (アフタヌーンKC)

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この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

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If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.

 仕事が苦手だ。というよりも、正確には集団競技とか集団作業が苦手なのだ。そして、自分が個人ではスペックが高いと信じつづけていたが、仕事が苦手だと確信するに至るまでおおよそ三十年程度も時間がかかった。

 

 職場では怒りっぽく身体が常にこわばっている。マッサージを受けると、大抵相当こっていると言われる。焦っている時につくった書類の誤りを指摘されると腹が立つ、極端な時だと露骨に嫌な顔をする。頭のなかでは指摘した人を憎悪を感じながらめちゃくちゃに攻撃する。そして、事務仕事の処理速度は早いらしい。仕事の勉強は重ねる方で、弁は立つと思う。

 

 どうしてこうなってしまうのだろうか。ぼくは誰かに認められないとそこにいてはいけないという気持ちが強く、周囲に認められたいがためにむちゃくちゃな努力をしてきた。仕事に関しては常に誰かが代わりにいるのだ。そんなぼくにとっての、焦って仕事が回らなくなるということは自分が役に立たないということの証明である。周りから指摘をもらうととても不安になってしまう。 

 

 つまり、仕事はチームプレイというよりもグループで何かを進めながらそれぞれのプレーヤーが別個に採点される個人競技のようなものだ。社会とは常にほんとうに厳しい競争にさらされる場所で、無能な人は即座に居場所を失うのだと。そして、そんな不安定な環境で生きているから自分の心の平穏を保つために常に誰かより凄いということを誇示し、自分に正しいと言い聞かせ、自分の周囲への優越感を確かめていたのだった。周りは自分の道具であって相手を助けることは、自分の時間の浪費であると。

 

 仕事が苦手というのはそういうことだ。チームプレイが苦手で、いつも周囲のことを意識して身体をこわばらせて神経質に仕事をこなし、ミスを量産する。

 

 ただ、そういう考え方から抜け出しつつもある、、、気がする。世の中そんなに居場所を争わなければならないほど厳しくないのだ。少なくともぼくの身の回りはそうだ。特に職場は社員をかなりかばってくれる。お互いに助けあう文化ができている。ぼくは今までその善意を受け止められなかった。自分の人に思ってもらえるほどの価値を信じられなかったし、相手も打算でそのように振舞っていると信じていた。周囲を敵や競争相手と考えて、常に自分を守っていたことで職場の雰囲気を悪くしていた。

 

 自分が役に立つということを証明するために人の役に立ちたいと常々思っていたが、最近は相手のために役に立ちたいと思うことも増えてきた。どうしてだろう。今日、新たに自分が同僚のことを見下して、ひどい扱い(社会人の振る舞いとしても好ましくない)をしていることに気がついて謝罪した。ひどく恥じたが、以前だったらこんなことも気がつけなかっただろう。

 

 過度な緊張がほぐれてくると作業スピードはみるみる落ちた。でも、身体のこわばりはすこしづつほどけつつある。なんてことはない、周囲の目を気にして過度な負担をかけて自分をハイスペックにみせていただけだったのだ。ぼくは自分が仕事が本当は苦手で、ぼくのかわりはいくらでもいるけど、それでもここに居場所はあるという確信を持ちつつある。居心地の良さを感じると、その場所のみんなのために何かができると思え、何かをしたくなってくる。

 

 とても観念的な文章になってしまった。でも、これが一番率直に表現した気持ちだ。そういうわけで、題名のとおりにブログの副題も変えてみました。まわりとの関係の中での居場所というのがとても大切な言葉なのだと気がつく。

 

 If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.

 

 

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

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真摯な観察と提言―慎泰俊『ルポ 児童相談所―一時保護所から考える子ども支援』

 いろいろあってなかなか更新出来ていない。今日は以前読んで感銘をうけた本の要点だけメモった文章をアップロードする。

 

告発では、解決しない
社会起業家である著者が自ら住み込み、
取材し、課題解決の方向性を提言する


児童相談所併設の一時保護所は、虐待を受けた子どもや
家庭内で問題を起こした子どもらが一時的に保護される施設。
経験者の声は「あそこは地獄」「安心できた」と二つに分かれる。
社会企業家である著者自ら一〇ヵ所の一時保護所を訪問、二つに住み込み、
子供たち、親、職員ら一〇〇人以上のインタビューを実施。
一時保護所の現状と課題点を浮かび上がらせ、
どのように改善したらよいのか、一方的でない解決の方向性を探る。

 

 児童相談所の特に一時保護所についてその実相を統計データと行政を含む多様な主体からのインタビュー、自身の保護所への住み込みから報告し、その解決策を提言する。

 

 一時保護所とは児童相談所の中の施設で、非行少年、被虐待児、児童養護施設や里親家庭に入る前の子どもが一時的に入る場所だ。平均一月程度の滞在をした後に(1)子どもたちは実家庭に戻るか、(2)里親・児童養護施設等(社会的擁護)に措置されるか、(3)特別養子縁組を受ける。筆者の関わった子どもたちは口をそろえて一時保護書を嫌な場所として語るという。

 

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"患者"の視点から読む、認められたい私たちが認め合う社会へ。―熊代亨『認められたい』

 かんたんな言葉でこのおれ/わたしの「認められたさ」を説明してくれて一気に読めた。とてもよかった。心の形がちょっとかわり、これからさらに変わり始めていく予感がする。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

 認められたい気持ちが自分も強くてコントロールしきれていないという思いはあったので、ここはぜひにとAmazonでぽちりました。おれがおれが、わたしはわたしは、という思いに振り回されている皆さんにすごくおすすめしたい。

 

 この本は『認められたい』という気持ちはどんなもか、その気持ちを満たし続けるために「苦しいあなたはどうすればいいか」を教えてくれる本だ。さらにはあなたの幸せの先に、あなたも人を幸せにできてお互いに認め合える社会が待っているかもしれないという構成となっている。

 

 認められたいとは他人との間での関係性の欲求だ。おおまかには承認欲求と所属欲求(自分が心寄せるグループに望ましいことになったら気持ちがみたされる)にわけられる。昔はとにかく会社に貢献することで所属欲求を満たす人がたくさんいたように、所属欲求が社会的に強かったけれども、今では個人化の趨勢の下で承認欲求が優勢となってる。

 

 この承認欲求は一度満たしてもまたすぐ満たしたくなる。例えば、かまってちゃんはいったんかまっても、まだまだずっとかまってほしい。また、承認欲求を満たされている方が成長に繋がりやすいが、満たすのが下手な人(承認欲求のレベルが低い人)は内面的につらい思いをしがちだ。

 

 下手な人は承認欲求が強くて自分のことばかり考えていたり、そもそも認められないといけないとおもっていたりするところが特徴的である。年齢に応じた長所やコミュ力がある人は承認欲求を満たしやすく、他人とうまく関われる承認欲求を満たすのがうまい高い普通の人がいる。

 

 著者はわたしだけ!という承認欲求の一人勝ちは実質的に難しいと説いている。所属欲求をうまく満たせず、承認欲求だけを求めて生きていく孤独さは避けたほうが好ましいのだ。幸せになるためには要求水準の高い認められたい(承認欲求と所属欲求)を追いかけるのではなく、人並みに認められて満足できるようになることが大切なのである。

 

 そしてそのためにどうしたらいいのかということを「自己愛」と「適度な欲求不満」、「コミュ力」をキーワードとして、シンプルに、かつ、説明的に展開してくれる。他人との関係をコミュ力を身につけてどれだけ適度な距離感をとりながら長く続けていくか、レベル上げはこの関係の中で進んでいくのだ。

 

 このあたりの理論的な説明と方法は本書を手にとって噛みしめてほしい。目次で言うところの第5章コミュニケーション能力を育てるための7つの基礎、第6章人間関係の距離感の部分です。

 目次:認められたい/熊代 亨 - 紙の本:honto本の通販ストア

 

 自分自身にひきつけて考えてみる。ぼくは心理療法を受けている。無力感と孤独感に耐えられなくなってカウンセラーに電話をした。この本で言う承認欲求と所属欲求を満たすのが下手な人だろう。おれがおれが認められたい人は、認められる瞬間は気持ちよくても、認められていない長い時間はつらく認めて欲しがらざるをえないのだと思う。華やかな生活を見せびらかす人(さざるをえない人)は本当は居心地悪く生きているのかもしれない。

 

 面接の時間の中でとにかく自分についてひたすら話し続けるのを求められ、「適度な欲求不満」を何度も味わってきたと思う(面接の中では「諦める」、「折り合いを付ける」、「落とし所にする」という表現を好んで使う。)。あの瞬間の心が変わる感覚はすごく不思議だ。

 

 「認められたい」という気持ちは前からすごく強い。今も強い。そして、不思議な感覚をあじわいながら、心理療法の先にどんなものが待っていて自分その変化した後どうなってしまうんだろうという思いは前からあったし、全然予想がつかなかった。なにしろ、面接前と後では価値観が結構変わって周囲が違った景色に見える。すごく力強い文学作品に触れる前後の感覚の差に似てる。

 

 心理療法を受け始めてもう半年以上たつが、どうやって半径数メートルの人たちと関わるのがいいかという価値観、すこしずつ自分から身の回りの景色が最近は特に変わってきているのを実感している。日常生活の中で「自分が利他的に振る舞うこと」で自分は満たされているかもしれない、ということだ。

 

 自分のグループがいい感じになったら自分も嬉しいし、気持ち良い。それ自体だけでなく、自分が役に立っているその事実が楽しい。最近感じつつある感情とこの本の論旨がつながることで、承認欲求と所属欲求のレベルという言葉が自分の今いる位置を教えてくれた。

 

 心理療法を続けること、適度な欲求不満を味わい続けること。その結果、二つの欲求のレベルがあがり、取り扱いがうまくなることで自分が住む世界の居心地が変わるんだ!その先には、私も誰かを満たすことができるのかもしれない。

 

 最後にぼくが好きなところを引用しておしまいにする。イラストの展開と構成も素敵だったな。いい一冊でした。

 

 たくさんの人が、「認められたい」を充たし合える未来に変わっていく第一歩として、まず、あなた自身が「認められたい」をレベルアップさせていって、周りにいる人達と認め合えるような関係を築いていって欲しいと思います。そうやっていけば、あなたの周りにいる人達も「認められたい」のレベルアップを成し遂げやすくなるでしょう。そうやって、ひとりひとりのレベルアップが連鎖していけば、「認められたい」 を巡る今の息苦しい光景も、少しずつ良くなっていくのではないでしょうか。

 筆者としては、本書がそんな「認め合える」社会に向けて、少しでも役立つことを祈ります。p.187

 

 

 

認められたい

認められたい

 

 

『心理学の名著30』,13ヴィゴーツキー『教育心理学講義』(一九二六)―心理学が教育にできること

ヴィゴーツキー(一八九六ー一九三四)旧ソ連の心理学者。『教育心理学講義』は「教育課程の科学理解」に基づいて教師を援助するための一冊。p.116

 

 昔、『思考と行動における言語』を古本屋で見つけて読んだことを思い出した。きごうってどういうことだろう?という疑問。読み進めていくうちに、あの時代のソ連でこんなことを考えていた人がいたなんて!という驚きと強化矛盾として説明される「教師や親が、勉強している子にご褒美を上げると、ご褒美なしには勉強しなくなってしまう、という現象」p.120にヴィゴーツキーが気がついていたという指摘にはあるある!という気持ちになった。

 

1.心理学史上の位置づけ

ピアジェとの違い

 ヴィゴーツキーとピアジェは奇しくも同じ年に生まれた。ピアジェが、どちらかというと生物主義的な見方をとったのに対し、ヴィゴーツキーは社会的観点をとり、他者との相互作用の重要性を強調した。二人の考え方の違いは言語発達についてピアジェが内元から外言へと発達すると考えたのに対し、ヴィゴーツキーは外言から内言へと発達すると考えたことに有る。p.120「発達心理学シャピアジェ

 内言は思考?で外言は音声を用いた他者とのコミュニケーションのことだ。だから、頭で考えてから話す(せるようになる)ということではなく、話しながら考える(かんがえられるようになる)というほうがイメージに近いだろう。

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『心理学の名著30』,12ユング『心理学的類型』(一九二二)―対立を乗り越えて

ユング(一八七五ー一九六一)心理学者・精神医学者。『心理学的類型』は心の動きを重視し、独自の分析心理学の体系を打ち立てた一冊。p.106 

 

 ユングには二つのイメージを持っている。一つ目が無意識とか精神分析関係の人というイメージ、二つ目が、オカルトというか電波っぽい感じのイメージだ。あんまりよいイメージではない笑

 あとは村上春樹ユング心理学者の?河合隼雄の対談を読んだくらいか。今でもいろんな研究の土台にはなっているはずなんだけど、なんだか想像しにくいなあ。

 

  • 1 心理学史上の位置付け
  • 2 重要な概念
    • ①意識を扱う類型論
    • ②言語連想検査 

 

1 心理学史上の位置付け

フロイトとの違い

 対立とは、精神分析の創始者フロイト(11)とその弟子にあたるユングの無意識についての考え方の違いのことを指している。精神病者の妄想をフロイトは性的エネルギーであるリビドーの表れであるとしたのに対し、ユングは神話との比較で理解しようとしたのである。p.106「ユングフロイトの対立」

 ここはさらっと触れられているだけで詳しいことはよくわからない。妄想と神話を比較するのか?

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