この世界の片隅に
これは例えばの話だ。
あるシングルマザーがいる。彼女には子供が少なくとも四人以上いる。家族が住む部屋には四隅にウサギ用のかごが置いてあるようだ。ウサギは飼っていない。こどもを入れるためのかごだ。
子供のうちの少なくとも一人は障害を抱えているらしい。その子供の親と会って家庭の問題について話すために、ある福祉職の男性がその部屋にまで出向いたという。
伝聞だから詳細は分からない。
さて、その家庭では男性をもてなすために、カップラーメンをつくることになった。子供が母親に言われてカップラーメンにお湯を入れようとする。
でも、間違えて水をいれてしまい、そのことに気が付いた母親はこどもをぶん殴る。もちろん、男性の目の前で。
今僕たちが生きているのはこういう世界だ。暴力はこの世界のどこにでもある。視野には入らない片隅にある。つまり、この世界の片隅は、日本列島の中にありふれている場所であり、そして、これからもっと増えていくのだろう。
さて、このろくでなしの母親の気持ちはわかるだろうか。僕は少しだけわかる。彼女はおなかがすきすぎたときに感じる「世界中でたった一人でいるみたい」な状態だったのだろう。自分のことで精一杯で人のことを考えられない余裕のなさだ。
この世界の片隅に貧しく生きるということは、人にうまく頼れないからこそ陥った貧しさと余裕のなさのもとに、怒りと暴力とが背中合わせで生きるということだ(ここにだいたい過剰な性も加わる。彼女に子供が四人もいるように。)。
僕は、この女性がしっかり罪を問われる「べき」だとも思うけど、世の中に居場所を見つけられるように、社会の側がしっかり受け入れられるようにお金をかける「べき」だともおもっている。
今、僕は彼女/彼に寄り添える職業的な立場がないかを探っている。もちろん、そんな彼女/彼たちが向き合うのはあまりにも困難だ。なんで?少なくとも今は「頭がおかしい」からだ。もう一つ、金にならない。
この世界の片隅を見つけてその領域を少しでも減らすのが、福祉の仕事の一つの側面じゃないだろうか。予算が減り続ける中で、片隅を減らしていくのが腕の見せ所になるだろう。撤退戦の中での絶望的な任務だ。
ぼくは寄り添えるような人間になりたいと思っている。なれるかはまだわからない。なれるとうれしい。