The long waiting

If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.

猫が死ぬようだ

親から猫の死の徴候を伝えるメールがあった。

 

猫が固形のご飯を一週間も食べられていないらしい。近いうちに死ぬだろう。放っておけず、この週末に帰ることにした。前回の記事でも書いたように、猫は家族の結束点だった。もちろん、いてくれるだけで嬉しかった。でも、彼女がいる意味ってそれだけじゃないんだよ。いてくれるだけでも嬉しいんだよ。残念だけどもうサヨナラのようだ。

 

親に電話をかけて、猫の病状を聞いた。淡々と客観的な事実を伝える言葉に、思わず「死んでも悲しくないの?」と聞いていた。

 

その質問に「悲しくないわけないじゃない」という趣旨の一言とともに、猫についての客観的な事実の羅列という答えはもらえた。

 

でも、そういうことじゃないんだと、すごく久しぶりに親に聞こえる形で嗚咽を漏らしたと思う。だって猫が死ぬんだぜ。受話器を通して親に聞こえていたと思う。もう、悲しくて悲しくて仕方なかった。親っていうか母親に聞こえる感じで泣いたのは、父親が倒れて以来かな。

 

弟と妹は先代の猫が死んだ際に十分な弔いをしてきたようだ。でも、おれは先代が死んで時間が立ってからその死を知らされた。結局骨壷を見ても実感は沸かず、ああ、あいつはいないんだなと思った。

 

夏に先取りした喪失感は、先日表現してきたはずの愛しい猫が今まで一緒に生きてくれたという感謝だけでなく、これからの家族の中でのおれの振る舞いについての疑問も挟んできた。

 

先月、お別れはしてきたつもりなのに。

 

おいみゅん、お前がいなくなったら、家族はどうすればいいんだよ。うちの家族はお前みたいな結束点がないと家族としてやってけないんだよ。どうすればいいんだよ。なあみゅん、おしえてくれよ。ありがとう、みゅん、でもどうすればいいんだよ。みゅん、今までいてくれてありがとう。