The long waiting

If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.

平成18年8月26日の自殺未遂②

 

upn.hatenablog.com

 

 

 もう一つのエピソードと当時の人生観について。実際に自殺未遂に及んだ話ではなくて夢の話です。 

 

 中学校中学年から高校卒業にかけて、ぼくには強烈にいじっていた知人がいた。結論から言うと、その知人は20代で亡くなった。なぜ亡くなったのかはわからなかった。それはあるいはガンかもしれないけど、実のところぼくは何も聞いていない。

 

 でもそのときの本心を言うと、ぼくには自死であるように感じられた。平成18年か19年だ。あまりにもショッキングだったのか具体的にいつだったのか思い出せない。

 

 率直に言う。彼に対するぼくの態度は言葉の暴力だったし心理的な虐待だったと思う。親との関係を繰り返していた。

 

 まず、とても大切なこととして、ぼくはその彼を傷つけるような話をすべきではなかった。それはどれだけ冗談としても絶対にすべきじゃなかった。その冗談で盛り上がるとしても、盛り上がらないでうまくいく人間関係だってあったわけだし。

 

 でも一方で、その当時、誰かを貶めなければ生きていけないほど、自分を無価値だと思っていたのも事実だ。

 

 本題に戻る。彼が亡くなったという話を聞いたのはまた聞きだ。彼の近所に住んでいた友人から「死因不明だけど」ということで聞いた。「死因不明」。なぜ、「死因不明」とわざわざ言わなければならないのだろうか。

 

 ぼくは彼の死についてほとんど何も聞いていない。しかし、とても罪悪感を感じている。ぼくは彼の人生についてなにを知っているのだろうかとも思う。

 

 次に、ぼくの当時の死生観についての話をしたい。死生観の話は先輩にしたことがある。概ね、物語として自分の人生を見た時に、きれいに辻褄があうように死にたいと話した。先輩は理解し難いという反応だった。

 

 それはそうだ、20歳前の子どもが死を意識して生きているのだ。けれども、この考えはしばらくぼくの基本的な死生観だった。他人の視点から評価して人生に意味がなければならないと思っていたのだった。当時は自分が生きることに意味などないと思っていた。

 

 さて、今のぼくはというと、「なんかもがいた軌跡が人生なんじゃねえの」というのが生きることについての本音である。あんまり、生きることの結果を目的にしないほうがいいんじゃないのと、と思ってる。

 

 亡くなった彼については、もちろん彼がそんなに傷つくことは絶対にすべきじゃなかったと思っている。それが彼の死に影響を与えようが与えまいが。そして死んでいないぼくにとっては、生きることを肯定するというのは、過去を振り返ると当たり前ではなかった。今はどうだろうか。

 

 

夢分析 (岩波新書)

夢分析 (岩波新書)